松本かつぢ公式サイトが新しくなりました。是非アクセスしてください。
かれこれ2ヶ月程前だったでしょうか、、
『松本かつぢ資料館』に御来館されたお客様より頂いた桐の小箱。
ずーっと探し求めていた、桐の箱!
かつぢは羽子板や桐の箱に可愛いクルミちゃんの絵付けをしていました、
当時私たち姉妹はお正月になるとクルミちゃんの描いてある羽子板で羽根つきを楽しんだものです。
又クルミちゃんの描いてある桐の箱には母から貰った着物の切れ端や大事な物をそーっと仕舞っておいたものですが、、今では何処へ行ってしまったのか?あの羽子板や桐の箱。
昔の羽子板は資料館に寄付して頂いた物が展示させて頂いていますが、、
どうしても桐の箱が探せず、どうしたら探せるかしら?と
長い事探していました、、ところが
先日突然、資料館に来館されたお客様から、
こちらで展示して頂ければと、寄贈して頂きました~~!!
もう~~!吃驚!見せて頂けるだけでも嬉しかったのに、、
寄贈して下さるなんて、、、感激です
嬉しいですね~~こんな貴重な物を頂けて、長い事探し求めていただけに、、
嬉しさは、、涙が出る程の物でした。

クルミちゃんの絵がすり切れる程、大切に使って下さっていたんですね。
大切に、大切に保管させて頂きます。

この桐の箱は大切に資料館で展示させて頂いています。
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テーマ:くるくるクルミちゃん - ジャンル:日記
- 2009/05/06(水) 12:51:00|
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七夕の絵を見た姉から、、新しい原稿が送られてきました。
テーマは
『父の夏』
我が家の夏の昼食は殆ど毎日と言っていいほど“茶がゆ”と決まっていた。
父がめっぽうそれが好きだったからだ。父は関西の出身で、子どもの頃から食べ慣れていたようである。
そもそも残りご飯を無駄にしないための工夫だったと思うが、暑い夏、食欲が落ちた時でもさらさらと喉を通る、あのひんやりした食感は忘れられない。
家電製品が発達した現在では、そうした工夫の喜びがすっかり姿を消してしまった。
子どもの頃、茶がゆを作るのは私の仕事だった。朝食の片付けをしながら大きなお鍋に湯を沸かし、そこへ冷や飯を入れコトコトと煮る。ほどよく煮えたら、別に入れておいたほうじ茶をたっぷり注ぎ、塩を一つまみ入れて火を消す。風呂場でタライに水を張り、粥を煮た鍋を浮かべ、時々水を取り換えながら冷やす。時間をかけてひんやり井戸水で冷やされた茶がゆには塩昆布や古漬のかくやなどがよく合った。
パンツ一枚の裸姿で肩に濡れたタオルをかけた父がおいしそうに茶がゆを食べ、騒がしく鳴く蝉の声に“夏はいいなあ”と楽しんでいた姿は瞼に鮮明にやきついている。
そしてもうひとつ、父の夏といえば“水風呂”である。父は仕事の途中でも暑くなると水風呂に飛び込む。しかし汲みたての井戸水は冷たすぎる。そのためいつでも風呂桶にはあらかじめ水を汲んでぬるくしておく必要があった。我が家はその頃、手押し式の井戸を使っていたので四角くて大きな風呂桶に水を汲むのは容易なことではなかった。誰もやりたがらなかった。私などは自分の鎖骨が異常に発達したのは、大事な成長期にあの過酷な水汲みをさせられたせいだと今でも思っている。
或るとき、あまりに辛いので椅子を持ってきてその上に立ち、井戸の取っ手に足を紐で縛りつけ本を読みながら足で汲んでみた。それを見た父は叱らずに“お前さんには負けたよ”と笑った。しかし結果は失敗、やはり何事も全身でやらなければうまくいかないものだということがわかった。
その当時まだ日本の家庭にはエアコンなどというものはなく、各家では涼をとるべく様々な工夫をした。我が家では夏になるとまず、建具が全部外され、すだれがそれに代わった。部屋の中には端を布でくるんだ細い割竹の長いもの、軒下にはごつごつした丈夫そうな竹の短いものがかけられた。夕方になるとすだれを通った風が“明珍の風鈴”をならし、いかにも涼しげだった。まさに夏の風物詩と言える。
すだれと言えば思い出すことがある。父には変な癖があって、夕方散歩に出ると、まだそう遠くへ行かないうちに戻ってくることがよくあった。道に落ちている釘や針金を見過ごすことができずに、拾って一度家に置きにくるのである。小さな引出が沢山ついた桐の低い箪笥に分類してしまっておき、夏になるとそれらが大活躍するのである。
父はもともと生活の知恵が大変豊富な人だった。軒下のすだれが折からの強い風でバタバタしたり、あるいは出入りに邪魔な時、瞬時に巻き上げるためのフックを作ってみたり、夜蚊帳を吊る時、部屋の中央に下がっている電灯ののコードを短くする道具を作ってみたり…さしあたり今なら、日曜大工センターにでも行けば簡単に手に入りそうなものだが、その当時はそんな店もなく父の作った道具は大変重宝した。父が亡くなった後、その桐のタンスはお弟子さんの一人に差し上げたと聞いた。
そういえば父の仕事机の周りにはアイデアいっぱいの使いやすいものが沢山あった。例えば浅いアルミのお盆を無数に使った、絵筆、色鉛筆、絵の具などを入れるひきだしや、机の真ん中を四角く切り取ってガラスをはめ、下から蛍光灯を照らすトレーサーなど、近所に住む建具屋さんが父の良き協力者だったこともさいわいした。
なぜかこの頃、整然とした、そして夢のある父の仕事机をよく思い出す。いくらでも便利なものが簡単に手に入る世の中になったが、父の創意工夫の精神はしっかり子供達にうけつがれているように思うし、最近では父がこよなく愛した骨董家具の店を自分で始めた私の息子に父の影を見ることがよくある。
- 2008/07/03(木) 22:02:38|
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もうすぐ七夕ですね、今ギャラリーではこんな絵が飾られています。

夏の大好きだった父、夏になると嬉しそうにニコニコしてた父の顔を思い出します。
クルミちゃん、カッチャン、みーちゃん、短冊に何をおねがいしたのかしら、、、
3人とも嬉しそう~~~
『小学1年生7月号』と下の方に赤鉛筆で記されています』
- 2008/07/02(水) 22:12:50|
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父の死
松本 明子
父が亡くなったのは5月の花の盛りだった。
西行の歌に
“願わくば花の下にて我死なん”というのがある。父がそう願っていたかどうかは知る由もないが、看病を続けていた娘の私としてはそう願わずにはいられなかった。
周囲の人々への心使いの細やかな人の最後にふさわしいように思った。
83歳だった。それより2ヶ月程前に何度目かの脳卒中の発作にみまわれ、家に近かったという事もあって私がかつて勤務していた中伊豆温泉病院に入院した。
数日経っても意識は戻らず看護婦さんが耳元で“松本さーん”と大きな声で呼ぶとかすかに反応する程度で、この入院は長引きそうだなと覚悟をきめた。
母と私は交替で看病したが、生来丈夫であんまり病気をした事の無い母には“看病”という作業は向かず、日を追うにつれ不満が口をついて出てきた。
若かった私は『自分の主人なのに・・・』と辛い気持ちでそれを聞いた。
私にはその当時まだ小さな子供達がいたが、ありがたいことに二人とも全く手の掛からない子だったので、母の負担を減らすべく頻繁に病院に通って父の看病に精を出すことが出来たのは幸いであった。
毎日父を看ていて不思議なことがあった。
もともと大変きれい好きで几帳面な性格ではあったが、ベッドの上でもそういうところは随所に見られた。
寝具にはことさらうるさいこだわりを持った人でよく母を悩ませていたが、
意識の無いはずの病人が病院で使っている毛布が気にいらないらしく、
しきりに自由に動く方の手で毛布の表面にできた無数の毛玉をむしり取ろうとするのである。
そう言えば元気だった頃、セーターにできた毛玉や縫いっぱなしの糸端をハサミで念入りに切り取っていたのを思い出す。
身嗜みの大変良い人で、新しく買ってきた衣類は表裏ひっくり返しては丁寧に糸やゴミを取り、ブラシをかけてからでなくては腕を通さなかった。
おかしかったのは、以前、毎日欠かさずにやっていた鼻の下の髭の手入れを無意識にやっていたことである。見えないはずの目(お医者様の話では、その時点でもう視力は失っていたようである)を開いてまるで鏡に向かっているように指を細かく動かして、髭を撫で付ける姿は微笑ましかった。
入院して2ヶ月程経過した頃、病院での治療もマンネリ化し母にも疲れが目立ってきた。
“いっそ家に連れて帰ろう”ということになり、初めてプロのヘルパーさんを頼み、母と私は手分けして病人を受け入れる準備のために、歩いて10分程の所にある自宅に戻った。
わたしは子供達の世話も会ったので母に一足先に病院に戻ってもらった。
確か夕方の6時頃だったと思う。
”様子がおかしいからすぐに来て”と母から連絡が入った。
私が駆けつけた時には、父は既に息を引き取っていた。
静かで端正な顔だった。
看護婦さんが手際よく死出の旅支度をして下さった頃は、もう消灯時間の9時をまわっていた。さてどうしたものか・・・このまま病室にいても翌朝早くから近隣の部屋の方々に迷惑をおかけしてもいけない。折から見舞いにきていた妹と相談し、まずは足音をたてないようように靴を脱いで病室の荷物を運び出した。
最後に遺体を霊安室に運んだ頃は、外は篠つく雨になっていた。
しかし霊安室で待っている母と父を載せるために車を取って戻ってきた頃には、分厚い雨雲は切れて雲間から満月が顔をだした。
母は後部座席で父を抱く様にして月を見上げていた。
あたりは霧に包まれ空には満天の月、これ以上ドラマティックな最期があるだろうか。
妹と二人息をのむおもいであった。
明けて翌日は暖かな初夏の日差しのした、花いっぱいの葬儀となった。
お父さんありがとう。
最期迄読んで下さってありがとうございました
- 2008/06/16(月) 07:59:04|
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父の散歩
松本明子(二女)
父は学生時代、ボクシングや器械体操をやっていて、その当時の人としてはかなりハイカラなスポーツ青年であったらしい。
そのせいか、中高年になってからでも、比較的動きは機敏でよく体を動かしていたし、
“健康”についても関心が高かった。
終日机に向かっているため、一日の仕事が終わる夕方にはかなり疲労がたまる。
それを取るべく、庭に出て首や肩を動かし腕をまわしていた姿を想い出す。
そして、余程仕事がつかえていたり天候が悪い時でない限り、
必ずと言っていいほど散歩にでかける。
それも近所をぶらぶらなどと生易しいものではなく、バスか電車に乗って近ければ自由が丘か渋谷、間がよければ銀座か新橋くんだりまで足を延ばす。
背筋を伸ばし大股で歩く姿は昨日のことのように瞼に浮かぶ。
気分の良い時などは子供たちを連れていくこともある。
子供が多かったので全員一緒というわけにはいかず、
大体二人ずつ“今日はお前さんとお前さん”というような感じで、
今から思えば満遍なくいきわたるように連れて行ってくれていたように思う。
そして私達は「今度はいつだろう…」と心待ちにしていたものである。

私(管理人)と姉(著者)
私は大体いつも妹と一緒で、夕食後の散歩だと自由が丘ならモンブランのケーキと紅茶。
夏などはかき氷も楽しみなもので、お揃いの浴衣を着た私達は大股で歩く父の後ろからついていくのだが、“氷”と書かれたのぼりのある店をさがすのに余念がなく足早な父の姿を見失うこともよくあった。
父はかき氷は絶対あずきと決まっていて、それも食べ方にもこだわりがあった。
運ばれてきた氷あずきを先ず両手でギュッとおさえて、食べる時に器の外にこぼれないようにしてから、穴を掘るようにして食べる。
早く仕事が終わった時は夕食前に家を出て、新宿伊勢丹のお好み食堂でお子様ランチか銀座末広のハンバーグを食べさせてくれた。
そして原稿料が入った後などはデパートで楽しそうに洋服やお人形を買ってくれた。50年以上も前の話である。
兄や姉たちの散歩がどんなものだったのかはわからないが、一度こんなことがあった。
寒い冬の日だった。
兄たち二人を連れて出かける父の姿は、グレーの霜降りのもじりにハンチング、
黒足袋に下駄か雪駄だったと記憶しているが子供心にも“恰好いい”と思えた。
寒がりの父は、首にはいつもフジ絹の黒い布を巻いていた。
その日は渋谷の百件棚のあたりを懐手をして歩いていたらしい。
しばらくすると前方から、その筋のお兄さん方とおぼしき人たちが近づいてきて、
兄たちは一瞬”ぎょっ“としたようだが、すれ違いざまに頭を下げ、
挨拶をして通り過ぎた。
どちらかの親分さんと勘違いをしたようだと、帰ってきた兄達が興奮して話をしていたのを聞いた。
父にはそうした迫力があった。しかし、私達はただの一度もそういう場所へは連れて行かれなかったのは、父の配慮だったのか…。
都心から離れたところに住んでいたので、帰りは大体いつもタクシーに乗った。
ところが父は家から離れた人目につかない場所でタクシーを降りるのが常だった。
その頃、我が家は比較的経済的に恵まれていて“松本さんちは特別”というような見方をされているのを私は知っていたから、そんな父を見て父の気持ちがよくわかった。
だから、買い物の入ったデパートの大きな袋を目立たないようにして、父の後から小走りについていく時が一番心苦しく辛かった。
でも、ある時、父はそんな私を“子供らしくない”と母に語ったと、母から聞かせられた時は悲しかった。
最後迄、読んで下さってありがとうございました。
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- 2008/06/03(火) 23:35:44|
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この挿絵はおそらく戦時中のものとおもわれます。まだ私たち姉妹が生まれる前のことですね。従軍看護婦として戦地に赴いた乙女が激しい戦火の下で砲声を聞きながら故郷に手紙を書いているところでしょうか・・・・・

次女の明子です。久しぶりに“父かつぢ”について書いてみようと思います。とにかく逸話の多いひとでした。特に食べることに関しては極上の味覚をもった人で、この季節になるとそろそろ鰌ですね。そうそう、“どぜう”です。
一日の仕事が終わると着流しにもじり(男性用の着物のコート)を羽織って駒形まででかけるのです。今では渋谷でも食べられますがその当時(今から50年も前のことですよ!)はバスに乗って電車を乗り継いで浅草の先までいくわけですから大変なことですが、好きなものを食べたいという情熱は人一倍でしたね。大好きな剣菱かキクマサでいっぱいやりながら柳川鍋をつついている親父さんを想像するとついこの間の事のようにおもえます。帰りは夜半になるのが常できちんとかぶって出かけたはずのハンチングがあみだになって懐手をした父がご機嫌で“とにかくおれはもてるよ!”と庭先で体をゆらゆらさせていたのをおもいだします。きっといいことがあったのでしょう。確かに子供心にも素敵な父でした。父はお酒が好きでしたがいわゆる“酒に飲まれる“人ではありませんでしたから酔って乱れた姿を見たことがありませんでした。ダンディなひとでした。その辺がもてた所以でしょうか。
或るときこんなことがありました。“そんなに好きなら私も作ってみようかしら”と料理の好きな母が生きたドジョウとお豆腐をかってきました。よせばいいのに…。
お鍋に豆腐を入れそこへ洗ったドジョウを入れ蓋をしたまでは良かったのですがガスの火をつけたとたんにドジョウは大騒ぎ! きゅうきゅうと悲鳴を上げながら冷たい豆腐の中に逃げ込もうとするのですからたまりません。母は耳をふさいで逃げ出してしまいました。その後のことはご想像にお任せします。
父は歯が丈夫で亡くなるまで入れ歯が一本もありませんでした。秋になると絵筆を止めて庭の柿の木からよく色ずいた柿の実をもいでは絵の具やインクのしみついたズボンで拭いてガブリと丸かじりをするのが大好きでした。庭には種類の違う何本もの柿の木があったのを思い出しました。そうだ!あの頃毎日台所から出る生ゴミを柿の木の根元を掘って埋めるのは私の仕事だったことも思い出した。アー懐かしいな、あの頃が
- 2007/11/03(土) 12:03:14|
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かつぢファンの皆様こんにちは。
かつぢの孫のひとりであります「雅」です。(孫は沢山います。)
今回、私が製作した新しいかつぢのウェブサイトはいかがですか?
これからもかつぢの作品やエピソードなどを
沢山のコンテンツを紹介していきますので、時折ご覧ください。
さて、当ブログは、ゆかりのある人たちからの思い出話や楽しいエピソードを募集していますので、
まずは、トップバッターとして、サイト製作者自らが記事を書かせていただきます。
つまらぬ内容ですが、しばし、お付き合いください。
祖父「パポちゃん」の思い出
私が生まれた昭和47年、祖父は68歳。叙情画や漫画の世界から引退してから久しく、
中伊豆にアトリエ「稚筍房」を立ち上げた翌年ということになります。
私は、そのアトリエのそばで幼少期を過ごしましたので、
晩年の祖父に最も身近かにいたことになります。
残念ながら、小さな頃の記憶は鮮明ではなく、祖父と遊んだことや生の会話はあまり憶えていません。
また、祖父が偉大なアーティストであることも、当時は気にしたこともありませんでした。
もっとも老いた祖父は、後年記憶も朧でしたから、私がいっちょまえに口が利ける年頃には
もうあまり会話をすることができませんでしたが・・・
ですから、私の中の祖父の記憶とは、祖父本人から受けたリアルな記憶よりも
古いアルバムや8mmフィルム、あるいは親類によって語られる人エピソードから
出来上がったものなんだと思います。
あえて記憶を探すならば、
洋服の糸くずやシワを気にする姿。かんしゃくをおこして、お出かけをフイにすること。
ハンチング、色眼鏡、手元にはタバコかパイプというお決まりのアイテム。
1センチでも筆を動かしたら後で気づかれてしまうだろうというくらい整然としていた部屋。
兄と使っていた子供部屋にかけてあった祖父の童画。
それと、渋くって子供には理解できないけれど、とにかく立派だと思えた家具や美術品。
などでしょうか。
祖父が亡くなってから、20年余。
古いソファ、マフラーなどが手元にあるんですが、どれも自分の好みにぴったりで今も大切にしています。
大人同士の会話が叶わなかったた自分は、
祖父愛用の品々に触れることで、美意識や世界観などについて語りあっています。
それは祖父の作品を見ることよりも濃厚であり、また画家かつぢではなく、
祖父「パポちゃん」※との見えない会話みたいだと考えています。
現在、私は中国や韓国の古い家具を扱う仕事をしていますが、
祖父もまた、若き日に、中国上海を旅し、その大陸の雄大さに感激したようですし、
李朝の木工や磁器などを愛し、よく買い求めたと聞きます。
絵の才能はどうやら遺伝してないようですが、このあたりの趣向は
ちょっぴり受け継いでいるようです。
「パポちゃん、どう?僕の趣味。」と聞いてみたいものです。
※「パポちゃん」とは、家族みんなが呼んだ祖父の愛称でした。
次回、機会があれば、8mmフィルムを公開したいと思っています。
ご拝読ありがとうございました。
再見
- 2007/10/17(水) 23:32:18|
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