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クルミちゃん日記

昭和の可愛い!を作ったイラストレータ『松本かつぢ』の作品やエピソード又はギャラリー情報等をかつぢにゆかりのある人々で綴っていきます。2009/12よりブログは公式サイトに移行しました。

松本かつぢ公式サイトが新しくなりました。是非アクセスしてください。

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お知らせ二つ!

展示会のおしらせが届きました!
[乙女のイコン展]

弥生美術館


こちらは弥生美術館で行われる展示会
2008年7月4日~9月28日迄

~大正・昭和の雑誌に見る少女画のイコノグラフィー~

(*イコンとは、キリスト教、とりわけ東方正教会の影響下において板絵やフレスコ画等に表現された宗教的な人物や事件などの聖画像を指します。)

乙女イコンの画家たち
(戦前)
竹下夢二 ・原田なみじ ・加藤まさを ・蕗谷虹児 ・高畑華宵 ・深谷美保子 ・不破俊子 ・松本かつぢ ・中原淳一 

(戦後)
中原淳一 ・佐藤清子 ・辰巳まさ江 ・松本雅美 ・藤井千秋 ・池田かずお ・江川みさお ・勝山ひろし ・藤田ミラノ ・内藤ルネ

弥生美術館←HPはこちらからどうぞ!

[少女漫画 パワー]ーつよく・やさしく・うつくしくー

京都


世界に誇る少女漫画家23人の展覧会!

2008年7月19日~8月31日
京都国際マンガミュージアム
展示内容・構成
1.少女マンガジャンルの成立と確立(1950~60年代)
2.少女マンガの革新(1970年代)
3.少女マンガのさらなる発展(1980年代以降)
4.コーナー展示
北米での反響を追う/マンガの原画と複製について考える/少女マンガ読書コーナー

京都国際マンガミュージアムに於いて行われます。
漫画に興味のある方、又御勉強されている方には大変興味のある展示かと思います。
お近くの方是非お起しになってみて下さい。


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  1. 2008/06/29(日) 12:34:58|
  2. 企画展
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クルミちゃん泥人形

昨日はギャラリーの開館日、


朝から、今にも雨の降りそうな空模様! 今日はお客様もいらっしゃらないかしら?と思っていた所、 嬉しい事に3組のお客様がいらっしゃて下さいました。 その中のお一組は、以前太田区の久が原にある『昭和のくらし博物館』友の会の メンバーの方の御紹介で、いらっしゃて下さいました。 その方が嬉しそうに小さな包みを出してみせて下さったのが、

骨董市で買い求められた写真の『クルミちゃんの泥人形』

クルミチャン泥人形


『これは本物ですか?』の問いに、昭和何年頃、どのような目的で作られたのか、どなたが作った物か、かつぢのデザインした物だとは思うのですが、、、『そうです本物です』と、はっきり お答えが出来ず、申し分けなかったのですが、、 本物にしてもそうで無いにしても、、可愛くて、 作った方の愛情がたっぷり感じられる、ほっこりとした、暖かいぬくもりを感じる物でした。。

どなたかお分かりになられる方いらっしゃいましたら、御教え頂けますか?

いずれにしても、こーゆう出会いがとっても嬉しい一日でした。



テーマ:くるくるクルミちゃん - ジャンル:日記

  1. 2008/06/22(日) 23:57:53|
  2. 可愛いね!
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父の死

父の死
    松本 明子
父が亡くなったのは5月の花の盛りだった。
西行の歌に“願わくば花の下にて我死なん”というのがある。父がそう願っていたかどうかは知る由もないが、看病を続けていた娘の私としてはそう願わずにはいられなかった。
周囲の人々への心使いの細やかな人の最後にふさわしいように思った。
83歳だった。それより2ヶ月程前に何度目かの脳卒中の発作にみまわれ、家に近かったという事もあって私がかつて勤務していた中伊豆温泉病院に入院した。
数日経っても意識は戻らず看護婦さんが耳元で“松本さーん”と大きな声で呼ぶとかすかに反応する程度で、この入院は長引きそうだなと覚悟をきめた。
母と私は交替で看病したが、生来丈夫であんまり病気をした事の無い母には“看病”という作業は向かず、日を追うにつれ不満が口をついて出てきた。
若かった私は『自分の主人なのに・・・』と辛い気持ちでそれを聞いた。

 私にはその当時まだ小さな子供達がいたが、ありがたいことに二人とも全く手の掛からない子だったので、母の負担を減らすべく頻繁に病院に通って父の看病に精を出すことが出来たのは幸いであった。

毎日父を看ていて不思議なことがあった。
もともと大変きれい好きで几帳面な性格ではあったが、ベッドの上でもそういうところは随所に見られた。
寝具にはことさらうるさいこだわりを持った人でよく母を悩ませていたが、
意識の無いはずの病人が病院で使っている毛布が気にいらないらしく、
しきりに自由に動く方の手で毛布の表面にできた無数の毛玉をむしり取ろうとするのである。
そう言えば元気だった頃、セーターにできた毛玉や縫いっぱなしの糸端をハサミで念入りに切り取っていたのを思い出す。
 
 身嗜みの大変良い人で、新しく買ってきた衣類は表裏ひっくり返しては丁寧に糸やゴミを取り、ブラシをかけてからでなくては腕を通さなかった。

おかしかったのは、以前、毎日欠かさずにやっていた鼻の下の髭の手入れを無意識にやっていたことである。見えないはずの目(お医者様の話では、その時点でもう視力は失っていたようである)を開いてまるで鏡に向かっているように指を細かく動かして、髭を撫で付ける姿は微笑ましかった。
入院して2ヶ月程経過した頃、病院での治療もマンネリ化し母にも疲れが目立ってきた。
“いっそ家に連れて帰ろう”ということになり、初めてプロのヘルパーさんを頼み、母と私は手分けして病人を受け入れる準備のために、歩いて10分程の所にある自宅に戻った。

わたしは子供達の世話も会ったので母に一足先に病院に戻ってもらった。
確か夕方の6時頃だったと思う。
”様子がおかしいからすぐに来て”と母から連絡が入った。
私が駆けつけた時には、父は既に息を引き取っていた。
静かで端正な顔だった。
 看護婦さんが手際よく死出の旅支度をして下さった頃は、もう消灯時間の9時をまわっていた。さてどうしたものか・・・このまま病室にいても翌朝早くから近隣の部屋の方々に迷惑をおかけしてもいけない。折から見舞いにきていた妹と相談し、まずは足音をたてないようように靴を脱いで病室の荷物を運び出した。
最後に遺体を霊安室に運んだ頃は、外は篠つく雨になっていた。
しかし霊安室で待っている母と父を載せるために車を取って戻ってきた頃には、分厚い雨雲は切れて雲間から満月が顔をだした。
母は後部座席で父を抱く様にして月を見上げていた。
あたりは霧に包まれ空には満天の月、これ以上ドラマティックな最期があるだろうか。
妹と二人息をのむおもいであった。
明けて翌日は暖かな初夏の日差しのした、花いっぱいの葬儀となった。
お父さんありがとう。

最期迄読んで下さってありがとうございました




  1. 2008/06/16(月) 07:59:04|
  2. 思いで
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  4. | コメント:1

赤い風船

私の好きなサイトにおじゃまして、こんな掲示を見せて頂きました!
あんまり可愛く夢のある映画でしたので、
私も応援サイトに参加させて頂くことにしました!

是非クリックしてみて下さいね。

日仏交流150周年記念上映の映画「赤い風船」を応援するサイトを見て、応援団に参加させて頂きました。
応援サイトでは、10,000人の応援団を現在募集中です。
応援してみたい!という方は、こちらの応援サイトよりご参加頂けます。

画面下に、応援バナーも設置させて頂きました。この赤い風船の絵をクリックして頂くと、たくさんの風船が画面いっぱいに広がります。
*****夢のようです~~~
そのいずれかをクリックすると、上記応援サイトにリンクするしくみです。
また、時々現れるスペシャル風船!をクリックすると、赤い風船が届くプレゼント応募画面が表示されますので、是非チャレンジしてみてくださいね。

バナーの「赤い風船」のロゴをクリックすると、映画の公式サイトにリンクします。映画の公開は7月予定です。一人の少年が風船を追いかけて、風船とお友達になり最後に画面一杯になる風船を見るのが今から楽しみです。




  1. 2008/06/14(土) 23:37:28|
  2. 未分類
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父の散歩

父の散歩
  松本明子(二女)

 父は学生時代、ボクシングや器械体操をやっていて、その当時の人としてはかなりハイカラなスポーツ青年であったらしい。
そのせいか、中高年になってからでも、比較的動きは機敏でよく体を動かしていたし、
“健康”についても関心が高かった。

終日机に向かっているため、一日の仕事が終わる夕方にはかなり疲労がたまる。
それを取るべく、庭に出て首や肩を動かし腕をまわしていた姿を想い出す。
 そして、余程仕事がつかえていたり天候が悪い時でない限り、
必ずと言っていいほど散歩にでかける。
それも近所をぶらぶらなどと生易しいものではなく、バスか電車に乗って近ければ自由が丘か渋谷、間がよければ銀座か新橋くんだりまで足を延ばす。

 背筋を伸ばし大股で歩く姿は昨日のことのように瞼に浮かぶ。
気分の良い時などは子供たちを連れていくこともある。
子供が多かったので全員一緒というわけにはいかず、
大体二人ずつ“今日はお前さんとお前さん”というような感じで、
今から思えば満遍なくいきわたるように連れて行ってくれていたように思う。
そして私達は「今度はいつだろう…」と心待ちにしていたものである。

Y&M

   私(管理人)と姉(著者)

私は大体いつも妹と一緒で、夕食後の散歩だと自由が丘ならモンブランのケーキと紅茶。
夏などはかき氷も楽しみなもので、お揃いの浴衣を着た私達は大股で歩く父の後ろからついていくのだが、“氷”と書かれたのぼりのある店をさがすのに余念がなく足早な父の姿を見失うこともよくあった。
父はかき氷は絶対あずきと決まっていて、それも食べ方にもこだわりがあった。
運ばれてきた氷あずきを先ず両手でギュッとおさえて、食べる時に器の外にこぼれないようにしてから、穴を掘るようにして食べる。

早く仕事が終わった時は夕食前に家を出て、新宿伊勢丹のお好み食堂でお子様ランチか銀座末広のハンバーグを食べさせてくれた。
そして原稿料が入った後などはデパートで楽しそうに洋服やお人形を買ってくれた。50年以上も前の話である。
 兄や姉たちの散歩がどんなものだったのかはわからないが、一度こんなことがあった。
寒い冬の日だった。
兄たち二人を連れて出かける父の姿は、グレーの霜降りのもじりにハンチング、
黒足袋に下駄か雪駄だったと記憶しているが子供心にも“恰好いい”と思えた。

 寒がりの父は、首にはいつもフジ絹の黒い布を巻いていた。
その日は渋谷の百件棚のあたりを懐手をして歩いていたらしい。
しばらくすると前方から、その筋のお兄さん方とおぼしき人たちが近づいてきて、
兄たちは一瞬”ぎょっ“としたようだが、すれ違いざまに頭を下げ、
挨拶をして通り過ぎた。
どちらかの親分さんと勘違いをしたようだと、帰ってきた兄達が興奮して話をしていたのを聞いた。

父にはそうした迫力があった。しかし、私達はただの一度もそういう場所へは連れて行かれなかったのは、父の配慮だったのか…。
 都心から離れたところに住んでいたので、帰りは大体いつもタクシーに乗った。
ところが父は家から離れた人目につかない場所でタクシーを降りるのが常だった。
その頃、我が家は比較的経済的に恵まれていて“松本さんちは特別”というような見方をされているのを私は知っていたから、そんな父を見て父の気持ちがよくわかった。
だから、買い物の入ったデパートの大きな袋を目立たないようにして、父の後から小走りについていく時が一番心苦しく辛かった。

でも、ある時、父はそんな私を“子供らしくない”と母に語ったと、母から聞かせられた時は悲しかった。    


        最後迄、読んで下さってありがとうございました。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

  1. 2008/06/03(火) 23:35:44|
  2. 思いで
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かつぢ装丁集

『松本かつぢ』のHPをリニューアルする以前の掲示板に、
『かつぢ装丁集』と言う貴重な資料を、ある方から(msion様)投稿して頂いていました!
かつぢ装丁集

 其れを少しずつこのブログでも御紹介していましたが、
 もっと、まとめて御紹介出来ない物かと、、考えておりました所、

 この度、ウェヴアルバムで公開する事が出来る様になりました。

 この様に完全な形で皆様に御紹介出来る事、大変嬉しく思っております。

 又御投稿頂きました(msion様)には心より感謝いたします。

 この機会に沢山の方々にご覧頂けたらと、、願っております。

 尚、かつぢの公式HPからもご覧頂ける様に準備しておりますので、

 もう暫くお待ち下さい。

テーマ:文学・小説 - ジャンル:小説・文学

  1. 2008/06/02(月) 09:53:40|
  2. かつぢ装丁集より
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