父の死
松本 明子
父が亡くなったのは5月の花の盛りだった。
西行の歌に
“願わくば花の下にて我死なん”というのがある。父がそう願っていたかどうかは知る由もないが、看病を続けていた娘の私としてはそう願わずにはいられなかった。
周囲の人々への心使いの細やかな人の最後にふさわしいように思った。
83歳だった。それより2ヶ月程前に何度目かの脳卒中の発作にみまわれ、家に近かったという事もあって私がかつて勤務していた中伊豆温泉病院に入院した。
数日経っても意識は戻らず看護婦さんが耳元で“松本さーん”と大きな声で呼ぶとかすかに反応する程度で、この入院は長引きそうだなと覚悟をきめた。
母と私は交替で看病したが、生来丈夫であんまり病気をした事の無い母には“看病”という作業は向かず、日を追うにつれ不満が口をついて出てきた。
若かった私は『自分の主人なのに・・・』と辛い気持ちでそれを聞いた。
私にはその当時まだ小さな子供達がいたが、ありがたいことに二人とも全く手の掛からない子だったので、母の負担を減らすべく頻繁に病院に通って父の看病に精を出すことが出来たのは幸いであった。
毎日父を看ていて不思議なことがあった。
もともと大変きれい好きで几帳面な性格ではあったが、ベッドの上でもそういうところは随所に見られた。
寝具にはことさらうるさいこだわりを持った人でよく母を悩ませていたが、
意識の無いはずの病人が病院で使っている毛布が気にいらないらしく、
しきりに自由に動く方の手で毛布の表面にできた無数の毛玉をむしり取ろうとするのである。
そう言えば元気だった頃、セーターにできた毛玉や縫いっぱなしの糸端をハサミで念入りに切り取っていたのを思い出す。
身嗜みの大変良い人で、新しく買ってきた衣類は表裏ひっくり返しては丁寧に糸やゴミを取り、ブラシをかけてからでなくては腕を通さなかった。
おかしかったのは、以前、毎日欠かさずにやっていた鼻の下の髭の手入れを無意識にやっていたことである。見えないはずの目(お医者様の話では、その時点でもう視力は失っていたようである)を開いてまるで鏡に向かっているように指を細かく動かして、髭を撫で付ける姿は微笑ましかった。
入院して2ヶ月程経過した頃、病院での治療もマンネリ化し母にも疲れが目立ってきた。
“いっそ家に連れて帰ろう”ということになり、初めてプロのヘルパーさんを頼み、母と私は手分けして病人を受け入れる準備のために、歩いて10分程の所にある自宅に戻った。
わたしは子供達の世話も会ったので母に一足先に病院に戻ってもらった。
確か夕方の6時頃だったと思う。
”様子がおかしいからすぐに来て”と母から連絡が入った。
私が駆けつけた時には、父は既に息を引き取っていた。
静かで端正な顔だった。
看護婦さんが手際よく死出の旅支度をして下さった頃は、もう消灯時間の9時をまわっていた。さてどうしたものか・・・このまま病室にいても翌朝早くから近隣の部屋の方々に迷惑をおかけしてもいけない。折から見舞いにきていた妹と相談し、まずは足音をたてないようように靴を脱いで病室の荷物を運び出した。
最後に遺体を霊安室に運んだ頃は、外は篠つく雨になっていた。
しかし霊安室で待っている母と父を載せるために車を取って戻ってきた頃には、分厚い雨雲は切れて雲間から満月が顔をだした。
母は後部座席で父を抱く様にして月を見上げていた。
あたりは霧に包まれ空には満天の月、これ以上ドラマティックな最期があるだろうか。
妹と二人息をのむおもいであった。
明けて翌日は暖かな初夏の日差しのした、花いっぱいの葬儀となった。
お父さんありがとう。
最期迄読んで下さってありがとうございました
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- 2008/06/16(月) 07:59:04|
- 思いで
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